fuchi's diary

都内在住のゲイの感じたこと、考えたこと

引っ越しが決まる前のそわそわ

ここ数週間、引っ越しをしようと賃貸物件のサイトを見たり、不動産屋に行ったり、内見に行ったりしてる。1つ気に入った物件があったので申込みをしたのだけど、僕の他にも何人か同時審査を行っているようで、非常にそわそわした気持ちでいる。

 

ゲイと自認してから初の引っ越しになるのだけど、物件選びの基準が変わったように感じている。これまでは、自分が住むだけだしワンルームとか1Kでいいやと思っていたのが、僕以外の誰かが一緒にいても窮屈に感じないだけの広さがほしいと思うようになった。

こういう風に考えるようになったのは、数ヶ月前に彼氏ができて、恋人が泊まりに来てくれる時にはある程度広い方がゆったり過ごせていいなと思うようになったからだ。ただ、その方とは別れてしまったので、今は引っ越したとしても呼べる恋人はいないのだけど…。

このブログに、恋人が出来たことを書くのはこれが初めてですね。ゲイとして初めての恋人ができてから別れるまでに考えたこと、感じたことは多々あるけれど、相手のこともあるのでブログには詳しくは書きたくないし書けないなと感じている。どこかで振り返るタイミングがあれば良いなと思います。

 

それで、引っ越しの話に戻すと、そういう理由でこれまでより広い物件に住んでみたいと探し始めたものの、通勤時間を増やすのも嫌、払える家賃も青天井とはいかないとなると、コレだという物件は数える程度しか見つかりませんでした。今回申し込んだ物件は、その数少ない一つで僕の経済状況と物件のスペックがちょうど良い感じに折り合ったので、ぜひとも入居したい。

ただ、あまり期待しすぎるとダメだったときの反動が怖いので、期待しすぎないようにしようと頭では考えているけれど、やっぱり期待してしまう。そんな気持ちの波に揺られてます。

平成最後の夏に出会った言葉

梅雨が明けて、夏の暑さが連日続いている。
僕には去年の夏の記憶がほとんどない。前半は仕事に忙殺されていて、後半は働きすぎでダウンしていたので体調を回復させることに精一杯だった。
ただ、そんな中でも記憶に残っていることがある。日付は覚えていないけれど炎天下のとある日に、僕は冷房の効いた図書館でエーリッヒ・フロムの『愛するということ』という本を手にとっていた。
この本は、ベストセラーになった『嫌われる勇気』で度々参照されている。その頃の僕は、自分がゲイであることを受け入れる決断をした直後で、自己肯定感に関する本をいくつか読む中でたどり着いた一冊だった。
 
『愛するということ』は1956年に書かれた本だから、今から60年前の当時の常識によって書かれている部分もある。同性愛については少ししか触れられていないけど、病気扱いされている。ただ、これは当時の医学的常識に乗っかっただけで、古い本を読むとよくあることだから気にならなかった。
 
2日間同じ図書館に通って『愛するということ』を読み終えたとき、とある箇所がなんとなく気になって、次のフレーズがあるページをコピーして取っておいた。
 
愛の習練にあたって欠かすことのできない姿勢が一つある。・・・何かというと、それは能動性である。
 
能動性。この単語がどうして気になるのか。その理由は当時の僕には分からなかったのだけど、つい数日前に部屋の掃除をしていたらコピーした文章が出てきて、あらためて読んでみると、「能動性」という言葉が身体に染み込んでくる感覚があった。
 
この本を読んだ当時の僕は、他人に頼まれたことばかりを一生懸命に頑張っていて、自分を見失っていた。世間が想定するこうすればうまくいくというレールに流されるように生きるんじゃなくて、能動的に、自分がどうしたいかを見定めて、自分の意思を持って生きていこうと思い始めた時期だった。だから、この言葉が心に刻みつけられたのだと思う。
 
この言葉に出会って一年近くが経って、去年いた場所からは随分と遠くに来たように感じている。身体も回復したし、新しいことにもだいぶ積極的になったと思う。だけれど、ついつい消極的になってしまう自分に気づくこともある。消極的なのは慎重とも言いかえられる訳で、それがダメなわけじゃないけれど、消極が過ぎればまた流されるだけになってしまう。
 
一年ぶりに再会した本の一節を読み返しながら、そんなことを考えていた。

敬語の崩し方

最近、ブログを全然書けていませんが、書きたいことは溜まる一方です。一度溜まり始めると書くのが余計に難しくなってきてるので、とりあえず今考えてることを書いてみます。
 
最近考えていることの一つに、「敬語を崩すのが難しい」ということがある。そんなことに悩むのかって人もいれば、あぁそれ悩むよねって人もいそうなテーマだと思う。
 
初対面の人と会う分には敬語で問題ない、というかマナー的にも敬語で良いと思う。だけど、繰り返し会う人がいて、相手の方が少しずつ敬語を崩してくると、それを関係性が縮まってきた証みたいに嬉しく感じる一方で、僕の方は敬語を崩せなくて、他人行儀な雰囲気が残ってしまうことがある。なんだか僕のほうが壁を築いているような気がして、もっとフランクに話したいと思うのだけどつい敬語を続けてしまう。そんな時にどうやって敬語を崩していけば良いのかなーって考えてます。
 
社会人になってからの友達で、最初は敬語で話してたのが今は全く敬語じゃなくなった友達がいるので、その時はどうだったかを振り返ってみると、あるタイミングで一気に敬語をやめたというより、お互いのそれまでのイメージとのギャップにツッコミを入れ合ううちに敬語じゃなくなった、という感じだった。
ギャップというのは、例えば、規則正しい生活をしてるように見えたけど、深夜にポテチ一袋食べた翌朝に胃がもたれて苦しがっていたりとか、ハマってる趣味を語る姿があまりに熱心で普段と雰囲気が違ったりとか。そういう時に茶化す感じでツッコミのようなやり取りをしてるうちに、敬語が抜け落ちていく感じです。
自分の隙というか、肩の力を抜いている姿を見せて、そこに敬語では言うのが難しいツッコミを言い合うことで、「そこまで気を使わなくていい」というメッセージを言葉にはしないけれどお互いに了解し合った、と言えるかもしれない。
 
ここまで書いてみると、敬語を崩すことができないっていうのは、僕が素の自分を見せることにまだ躊躇していて、理性で押さえ込んでる面があるということなのかも。
僕が、男の人を好きになる自分を受け入れるのが遅かったのは、理性で感情を押さえ込む習慣が強かったのも一つの理由なのかなと思っている。なので、ブログでは自分の気持ちをできるだけ素直に書こうとしているのだけど、現実の世界では、中々文章と同じようにはいかない。何でもかんでも素の自分を見せれば良いって訳でもないけど、人間関係を深めたいと思う(思ってくれる)人には、もう少し、自分の気持ちを表に出していきたいなと思う。

ゲイの友達について

このブログを通じてゲイの方と個別にやり取りをするようになってから、ほぼ半年が経った。僕は自分がゲイだと自認するまで、相手がゲイと分かって誰かと話したことはなかったから、この半年は、何度も新しい経験をさせてもらった。今も1〜2ヶ月前を振り返ると遠い昔のことのように感じられる位に、新鮮な日々を過ごしている。

僕の近況をまた伝えたいと思っている方もいるし、継続的にやり取りする中で、ブログには書きにくい悩みを相談したり、共通する趣味を楽しんでいる方もいる。初めて会った時、楽しく感じると同時にまた会えるのかなと少し不安に思ったりしたけれど、今は自信を持って「また会おう」と言える友達もできた。ブログを始めたばかりの頃を思い返すと、なんて恵まれた状況だろうという感慨が湧いてくる。

ゲイの友達には、ゲイではない友達と比べると、「仲間」だと感じる瞬間が多い。そんな瞬間を感じた場面を2つ、書いてみようと思う。

1つ目は、僕の性格は「慎重さ」が結構強いと思うのだけど、慎重が行き過ぎてゲイとしてどうやって行動していけばいいのか足踏み状態になっていた時、あえて僕の「慎重さ」と違う考えをぶつけてくれた方がいた。ブログに書いたことも書いていないことも含めて、お互いのことを知った上での踏み込んだ言葉は、相手がどういう意図でその言葉を言ったのかと考えることができるから、僕も真剣にその言葉を受け止めて、自分の「慎重さ」の先にあった、僕が怯えているものを見つめ直すことができた。

その時のやり取りを通じて、僕は自分の「慎重さ」を大事にしつつも、自分が想像していないことが起きたときにも楽しめる位の余裕を持とうと意識するようになった。それができるようになったとは言わないけど、このことを意識するようになってから、色々と身の回りにも変化が起きるようになって、僕にとって一つの転機になったように思う。

 

もう1つ、ゲイを自認して行動を始めたばかりの僕は、ゲイの人に会うと悩みを聞いてもらうことが多かったと思うのだけど、この間、何度も会っている方とちょっとした用事があってお会いした時、ゲイとしての側面ではないことについて、その方が抱えていることを聞かせてもらった。そして、一通りの話を聞かせてもらった最後に、「この話はふちさんに初めてしたかも」という言葉を聞いて、とても嬉しかった。

そのときに思ったのは、セクシャリティに関係のない悩みについて相談するにしても、自分がゲイであることを知らない友達より、同じセクシャリティの友達の方が相談しやすいのではないか、ということだ。

自分のことをゲイだと知らない友達には、それがどれだけ付き合いが長い友達だとしても、ゲイであるという秘密を抱えていると(時と場合によって大なり小なり違いはあるにせよ)意識してしまうだろう。そして、相談したい悩み事がセクシャリティと直接は関係がないことだとしても、秘密を抱えていることを意識しながら相談をするのでは、腹を割った話をしにくくなってしまう。

じゃあゲイ同士だと何でもすぐに話せるのかというと、ゲイ特有の悩みは初対面でも話しやすいけど、ゲイ以外の側面で自分を形作ったような過去や悩みをありのまま話すとなると、ある程度の期間やり取りが続いている人でないと難しいのかなと思う。

ゲイの友達は、ゲイ特有の悩みを相談できる意味で大切なのは間違いないけど、ゲイとしての側面が直接関係しない悩みについてもお互いに相談できる友達がいると、人生に大きな安定感をもたらしてくれると感じている。ゲイの人間関係は長続きさせるのが難しいと聞くこともあるけれど、今の僕の周りにあって、広がりつつある繋がりを大事にしていきたい。

『カササギ殺人事件』の感想

今日はあまりの暑さにとうとう冷房を使い始めて、涼みながら読書してました。読んだのは『カササギ殺人事件』というミステリーです。友人からオススメされて手に取ったのだけど、2018年末に結構な話題になっていた本みたいです。

 

www.bookbang.jp

 

小説の前半は、アガサ・クリスティのオマージュになっていて、古典ミステリー的な雰囲気を楽しめました。アガサ・クリスティは『そして誰もいなくなった』とか『パディントン発4時50分』とか、有名なものしか読んだことはないけど、インターネットも携帯電話もない時代のミステリーは結構好きで(僕が好きなのはアイザック・アシモフの『黒後家蜘蛛の会』シリーズ)、この『カササギ殺人事件』もネットが発達する以前のミステリーの雰囲気をしっかり味わえて、面白かったです。

後半は現実世界(現代)のミステリーになっているのですが…ネタバレにならないように、読み終わった時の頭に残っていたことをいくつか書いてみます。

物語の終わりに女性編集者の主人公が、「わたしの新しい人生は、それまでの人生のアナグラムであり、もともとはどんな形をしていたのか、新しい人生を生きはじめたときにようやく見えてきたということだ。」と回想するシーンがあるのですが、去年から色々と変わりはじめた自分の生活を振り返って、考えさせられる言葉でした。

ゲイブログ的なポイントとしては、出番の多い登場人物に、ゲイの年の差カップルがいます(登場してすぐに別れてしまうのですが)。最近の小説に同性愛者が出てくることはそんなに驚くことじゃないのかもしれないけど、ゲイがどういう描かれ方をされているのか、つい注目しちゃいますね。この小説ではゲイに関することは物語のメインではないのだけど、それなりに丁寧に描かれているように思いました。

あと、僕がゲイであることを知らない友人が、ゲイが登場する小説を勧めてくれた、ということもちょっと嬉しかったですね。ゲイが出るかどうかは関係なく、面白いと思ったからオススメしてくれたんだと思うけど、それがかえって嬉しく感じます。

久しぶりにミステリーを読んで面白かったので、もう何冊か読んでみようかな。