fuchi's diary

都内在住のゲイの感じたこと、考えたこと

心理的安全性という言葉があるらしい

つい数日前に「心理的安全性」(psychological safety)という言葉を知りました。この言葉を教えてくれた人によると、グーグル発祥のワードで、仕事のパフォーマンスを向上させるには恐怖や不安を感じることがない環境を整えることが重要という研究がある、ということでした。

ちょっとした小話だったのでこれ以上の詳しいことは知らないのですが、話を聞いていて、ゲイが生きていく上でも「心理的安全性」は重要だし、先日書いた文章に関係するところもあるなと思いました。

前回の記事では、年末に感じていた「ゲイとして生きること」を選んだことへの後ろめたさが、ゲイの存在を肯定してくれる家族の言葉によって鳴りを潜めたという話を書きました。後ろめたさが消えた、ではなく「鳴りを潜めた」と書いたのは、これからさきも、同じようなことに悩み、苦しむことはほぼ確実に来ると推測できたからです。

カミングアウトをしていない、またはしていても少数の信頼できる人にしかしていない人にとっては、自分がゲイであると他人に知られることには恐怖や不安があると思います。恐怖や不安の程度は、ものすごく怯えている人もいれば、ゲイであると知られても構わないけど知られたら知られたで面倒だから言わないでおく、くらいの人までいると思います。僕はまだこの恐怖・不安が結構強い方だと思いますが、ゲイであると知られることへの恐怖・不安との付き合い方というか、自分なりの対処方法を用意していくことは、ゲイがより快適な人生を送るために考えておくことの一つではないかと感じました。

それで、僕なりに、この恐怖や不安とうまく付き合っていく方法は何かと考えてみると、ゲイであることを含め、隠し事をしないで自分のことを話せる人間関係を持つことが一番効果的なんじゃないかなと考えてます。恐怖や不安を感じること自体を否定しようとすると、かえって意識してよけいに苦しむことになるので、恐怖や不安を感じる自分は認めつつ、そういった感情から解放される時間を意識的に作ることが重要ではないかと。ただ、ゲイなら誰でも良いというものでもないのかなとも思ってます。

昨年から1〜2ヶ月に一人くらいのペースでアプリを通してゲイの人と会っているのですが、やはり初対面の人だとゲイという点は同じでもあまり話が噛み合わずにお茶しただけで解散ということもありますし、ちょっとした知り合い、レベルの関係だと自分の仕事とか家族の個人情報を含むような話は中々できないですからね。

そういった意味では、ゲイの友人をつくって、長い関係性を築いていきたいという、去年から僕がこのブログに書いてあることに結局戻ってきたことになるのですが、自分のやろうとしていたことにさらにプラスの意味付けができたので、引き続きこの目的を持ちながら日々を過ごしていきたいです。

自認後のぶり返し

前回の記事を書いてからあっという間に年を越してしまいました。11月から12月にかけては仕事が忙しくて、深夜まで帰れない日もちょくちょくあり、それだけの仕事をこなせる体力が戻ってきたことに安堵しつつ、また仕事だけの人生に戻ってしまわないように気をつけなきゃと改めて思う、そういう日々でした。

年末年始は実家に帰って家族と過ごしたり、地元の友人と忘年会をしたりして過ごしましたが、令和元年の年末はこのブログで文章を書き始めてから一番強く、ゲイであると自認したことへの反動がありました。正確にいうと、自分が男の人を好きになることはもうゆるがないだろうという実感があるので、そのことを拒否するという気持ちはなかったのですが、男の人を好きになるということは前提とした上で、「ゲイとして生きること」を選択して本当に良かったのかという思いが湧きました。

そう思うようになった原因は色々あるのですが、年末が近づくにつれて、職場の同僚や地元の友人の家庭で子どもが生まれる予定というおめでたいニュースが続いて、自分のごく身近に居る同じ30代前半の男性が、次々と人生の新しいステージに進んでいくのを目の当たりにしました。その一方で、自分は相変わらず一人でいるなとか、年を重ねるほどどんどん孤独な人生になってしまうのではないか、という感覚に囚われたことが大きいように思います。

そういうことを一度考え始めてしまうと、年末はブログ開始前のスタート地点に戻ったような感じで、ゲイだけれども女性と結婚する可能性とか、あるいは家庭をもつことに代わる何か人生をかける大仕事を見つけられないかとか、そんなことばかり考えていました。過去の経験から、女性とお付き合い・結婚することはできないし、しない方が良いと結論を出したはずなのに、ただただゲイであることから逃げるように、答えの出ない思考をグルグルと続けていました。

そんな心境の中、実家で母親・兄夫婦と新年を迎えました。一般的なゲイあるあるの話としては、帰省すると家族から結婚はまだしないのかなどと言われてマイナスな感情が生じることが多いと聞いていますが、ありがたいことに僕の場合はその逆でした。

親から結婚を急かされる子どもという、まさにその話題が、三が日のとある日の夕食で(僕のことではなく他の家庭の話として)出てきたのですが、兄夫婦は「結婚してもしなくても、子どもを産んでも産まなくても良い」とか、「(自分の子どもは)男の人を好きになっても女の人を好きになっても良い、生きているだけで良い。自分でお金を稼いで生きていく方法を身につけてほしい」というような会話をしていました。その場には、僕もいたし、僕の母親もいたし、兄の子どももいました。自分の子ども(それも大人の話していることもある程度分かる年齢の子ども)が目の前にいるところで、このような言葉を言ってくれたのはとても嬉しかったです。

その言葉をきいてから、やっぱりゲイとして生きていく方が良いのかなという思いがまた強くなってきて、今では、年末に感じていた「ゲイとして生きること」を選んだことへの後ろめたさは鳴りを潜めました。

長くなったので、一度このあたりで区切り、また続きを書こうと思います。 

 

ブログ開始から1年を振り返る

去年、このブログで初めての記事を公開してから、1年が経ちました。

 

最初に投稿した記事の冒頭で、「ゲイとして生きていく自分を受け入れる決心がついた」ということを書いていたのですが、この記事を読むと、ブログを始めたばかりの頃の、ものすごく気負っていた心情がよみがえってきます。

去年の11月を思い出すと、その頃の僕は仕事が原因で崩していた体調が回復したばかりで、無理をすればまた体調を崩してしまう可能性もあるような状態でした。ですが、体調面に不安はありつつも、ゲイとして何か行動したいという気持ちが抑えられず、はやる気持ちをなだめるように文章を書いて、ブログに投稿していました。

 

ブログを書き始めてから1年が経ち、当時は気合を入れて「受け入れる決心」をする対象だった僕のゲイとしての側面は、「自然なもの」として自分の一部になったように感じています。言葉でいうのが難しいのですが、ゲイとしての自分を受け入れるまでに形作られていた僕という存在の中に、ゲイとしての側面が溶け込んだという感じでしょうか。 

ブログを始めたばかりの頃は、ゲイ以外の知り合いにカミングアウトしないことへの葛藤とか、ゲイであることを隠していることに対する辛さとか、ゲイだからこその悩みがずっと続いていくのかなと思っていたのですが、ゲイの人と会うようになってから、あまり気にならなくなったのは意外でした。

今は、自分の周りにいる誰もが、僕には想像もつかない秘密の1つや2つは抱えているのだから、僕がゲイであることを話さなくても気にする必要なんてないじゃないか、と考えるようになりました。もうちょっと年齢を重ねて、40歳が見えてくるとまた受け止め方が変わってくるのかもしれませんが。

 

最近は、ゲイであるかどうかに関係なく、まず自分の生活を整えることが自分のやりたい方向に人生を向かわせるために大事だなと、そういう風に思うことが多いです。ゲイである、ゲイでない以前に30代の今考えておくこと、やっておいた方が良いことが色々あるなと感じています。

引っ越ししたばかりで生活環境が変わったタイミングというのも大きいですが、どういう地域に暮らすか、どういう物件に暮らすか。食事はどれだけ自炊をして、どれだけ外食に頼るのか。そういった毎日繰り返す生活を自分なりに大事にしていきたいです。

ものすごく地味ですが、この1年、1回会ったきりの人から繰り返し会っている人まで色んなゲイの人と会う中で、どうも僕は刺激にあふれる毎日よりも地味な中にもちょっとした変化に楽しみを見出す性分らしいと見えてきたので、意識的に生活のゆとりを大切にしていきたいです。

また、主にこのブログを通じてできたゲイの友人たちと会ったり話をする機会が途切れずに続いていることはとてもありがたく思ってます。ゲイの友人たちと会うのは、最初の頃はとてもエキサイティングな、嬉しいけれどもドキドキ緊張もする時間だったのが、今では良い意味で気を使わなくなってきていて、これもやはり僕にとって「自然」な関係になってきているのだと思います。

 

こうして振り返るとこの1年は、僕の中のゲイという側面を、ブログを始める前のように無視するのでもなく、ブログを始めたばかりの頃のように重く捉えすぎるのでもなく、自分の生活の一部として受け止めるようになっていった、そういう1年だったようです。

ブログは2年目に入りますが、こんな感じで、僕の思ったこと、感じたことをこれからも書いていきたいと思います。

ダイニングテーブルを買いました。

引っ越しを考えている、という文章を書いてからあっという間に2月弱が経っていた。

9月頭に申し込んでいた賃貸物件には結局決まらなくて、ガックリしていたのだけど、その直後に僕の希望する条件にもっと合致する物件の募集を見つけて、結局そこを借りることになったのだから、一寸先はわからないものです。

引っ越しの前後は中々落ち着かなくてブログを放置していたけど、やっと生活に使うものが大体揃って、一息つくことができました。

 

今回、引っ越しをきっかけに新調した家具類がいくつかあるのだけど、僕の中でこれを買うぞと意気込んで買ったものが、ダイニングテーブルです。

これまでの一人暮らしではローテーブルをメインで使っていたのだけど、誰かを家に招いて、ゆっくり食事をしたり話したりするには大きめのテーブルがあったほうが落ち着くかなと、思い切って4人がけのダイニングテーブルを購入しました。

つい先日、そのお披露目というか、引越し後に初めてゲイの友達を家に招く機会があり、ゆったりとした雰囲気の中で色々と話をした。

カフェとか居酒屋で話すのも楽しいけど、家の中でないと話せないことは多いなと感じてます。ゲイに関する話題もそうだけど、自分の仕事のこととか、家族のこととかも、家の中というクローズドな空間だからこそ話せるところまで掘り下げて色々と話せて、とても開放的な気持ちになれた。

ダイニングテーブルの効果だけじゃなくて、家の間取りとか、来てくれた人の人柄とかもあると思うのだけど、大きめのテーブルを買ってよかったなと思える出来事でした。あと、家の中では一人でいる時間の方が多いのだけど、一人の時でも大は小を兼ねるでとても重宝しています。今のところ、大きすぎると感じることはないのでホッとしてます。

 

ブログを書き始めてからもうすぐ1年。何回も同じことを書いている気がするけれど、ブログを始めたばかりの頃は、1年後の自分がこんな風になってるとは想像もできなかった。次回は、この1年の振り返り的な記事を書いてみたいと思います。

心の消化過程

引っ越しに備えて、再読したい本ともう読まないだろうから処分する本の整理を始めた。僕は同じ本を繰り返し読むのが好きで、もう一度読む価値があると思えばずっとその本を手元に残しているのだけど、ジェームズ・W・ヤングの『アイデアのつくり方』もそういう本の一つだ。

 

アイデアのつくり方

アイデアのつくり方

 

 

今はアイデアの発想方法に関する本は色々と出版されているけれど、この本の日本語訳が出版されたのは1988年と30年近く前で、このジャンルの中では古典的地位を占めているように思う。本文は60ページとかなり短いのだけど、アメリカの広告マンがシカゴ大学の学生向けに講義した内容等をまとめたもので、文章はすごく読みやすい。

タイトルに書いた「心の消化過程」は、アイデアを作る方法論の第2段階として出てくる。アイデアのつくり方の第1段階は必要な資料を収集することであるとした上で、必要な資料集めを終えたらすぐにアイデアが生まれるわけでなく、必要な資料を自分の中で消化吸収する期間を経て、その後に初めてアイデアが生まれるということを説いている。

パッとアイデアが思いつくこともあるけれど、資料を読み込むうちに、心の中がごちゃごちゃになって、はっきりとした答えが見えず途方に暮れる時が来るという。そして、そういう状態に至ったら、いったん問題を完全に放棄して、なんでも良いから自分の想像力や感情を刺激するものに心を移すことが解決のきっかけになるという。

 

これは、色々な分野に応用が可能な考え方だなと思う。人が新しいもの(それは未知の分野を学ぶことだったり、新しい人間関係を築くことだったり色々あるだろう)に取り組むとき、最初は何もかもが新しく感じられて、前に進んでいる感覚が得られやすい。ところが、その感覚は長続きしない。最初の新鮮な段階を通り過ぎてみると、その分野で自分がすべきことの多さや難しさに目が眩むような思いがして、停滞期に入ったと感じるときがくる。

そういうとき、停滞期に入ったことを苦しく感じることもあるけれど、それが自分なりに行動した結果たどり着いた停滞期だったら、「心の消化過程」というブレークスルーの直前にたどり着いたと見る事もできる。

 

これは僕にも経験のあることで、とある学問を短期間で習得することを目指していたとき、最初は新しい知識を知ることが面白くて仕方がなかったのだけど、ある程度勉強が進むと上達が感じられず、停滞期に入ったなと思うようになった。だけどそれは必要な期間と割り切って、あえて数ヶ月の間、全く別のことに意識を集中させてから戻ってきてみると、(数ヶ月の間まったくその分野に触れていなかったのに)その学問で使われる専門用語や思考方法が自分の身体に染み込んだような感覚が得られて、停滞期を脱していたという経験がある。 僕の経験則としては、資格の勉強とかだと、停滞期も含めて半年くらい経つと、自分の身体にしっくりくることが多い。

ただ、家族関係の問題のように根が深いものは消化するのに数年単位の時間がかかると思う。僕が抱えていた家族関係の悩みだと、10年以上かかって、やっと折り合いをつけることができるようになったものもある。「心の消化過程」にどれくらいの期間が必要かは問題の大きさに比例するだろうから、自分にとって重要な問題であればあるほど、あまり焦らない方が良いのだろう。

最近、何事も急かされることが多いというか、「心の消化過程」をもつ余裕がないと感じることが多いのだけれど、意識的に「心の消化過程」を持った方が、消化不良を起こさず、自分が納得できる解決に至るのも早いのかなと思う。