fuchi's diary

都内在住のゲイの感じたこと、考えたこと

『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』Track2までの感想

浅原ナオトさんの『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』をkindleで読んでます。

彼女が好きなものはホモであって僕ではない

彼女が好きなものはホモであって僕ではない

 

 

読み始めてすぐに、この小説は、高校生のゲイあるある、母子家庭のゲイあるある、ゲイから腐女子への対応あるあると、共感するところがありすぎて、全部読み終えてから感想を書こうとしても、まとまったものはとても書けそうにないなと思った。だから、ある程度読み進めたらブログに自分の気持ちを吐き出して、それからまた読み進めることにした。

 

今はTrack2まで読み終えたところ。僕は、作者が同性愛者だと前もって知った上で読み始めたけど、この小説の心理描写を読んでいたら、事前情報がなくても、おそらく作者の性的指向(少なくともその可能性)に気付けたんじゃないかと思う。

例えば、母子家庭で育った主人公の純くんが、母親のいない1人の自宅での夕食時に、カップルや家族連れの観光客のインタビューが映るテレビを消した後のこの描写

その手の専門家に言わせれば、僕は「父親の愛情に飢えている」ことになるだろう。そして、「父親の代わりを求めて年上好きの同性愛者になった」ことになるだろう。考えると腹が立つ。「違う」と言い切れないところが、特に。

「~考えると腹が立つ。」までは異性愛者の小説家でも書けるんじゃないかという気がするし、そんなもんだよねという感想なのだけど、「「違う」と言い切れないところが、特に。」との描写は僕の心をガンガン揺さぶってきた。

浅原さんが描く純くんの心理描写には、この箇所みたいに、冷徹な自己分析のあとにポツリと本音を重ねている箇所がいくつかあって、そのどれも迫真に迫る鋭さがある。

 

僕も父親が居ないのだけど、二十歳になる位までの間はずっと、大人の男性を求めていて、その感情をなだめるのにだいぶ苦労した。それに、自分が男の人を好きになることと、父親がいないことが関係してるのかしていないのか、ぐるぐると悩み続けた。(今は、そこで悩み続けても結論は出てこないから考えないで良いや、と思ってる。)

一方で、父親がいないことは、ホモじゃないかと探りを入れてくる友人たちに対する使い勝手の良い防波堤にもなってくれた。僕は、父親がいない家庭しか知らないから、それは僕にとって当たり前のことで、父親がいないと他人に言うのはそんなに大したことではないのだけど、これを言えば、殆どの人はそれ以上の詮索をしてこない。僕がホモであるという本丸は隠し通すことができる(ホモじゃないかと疑われても、それ以上踏み込んでこなくなる)。この小説は、その辺りのこともリアリティをもって書かれている。

 

この小説がネット上で公開されたのは2016年10月のことらしいから、IFの話でしかないのだけど、高校生か大学生の頃の僕が、純くんと既婚ゲイのマコトさんの関係を知ったら、年上の男性と身体だけでも繋がりたい欲求の嵐が急発生して、ゲイアプリでも何でも使って実現しようと、歯止めが利かなくなっていた可能性が高い。そういう行動を起こさせるような、強い影響力を持った小説だと思う。