fuchi's diary

都内在住のゲイの感じたこと、考えたこと

「正しい理解」とは

性的指向性的嗜好は違う概念なので、正しく理解しましょう。」

こういった使い方なら、「正しい理解」という言葉の使い方は納得できる。だから、セクシャル・マイノリティやLGBTが語られるとき、「正しい理解」というフレーズが出てくること自体は分かる。

でも、「差別を受けているLGBTの人を正しく理解しましょう」という言葉の使い方には違和感を覚える。

その意味するところが、LGBTの人がどういう時、どういう場面に生き辛さを感じるのかを理解する、という意味なら良いけれど、「人を正しく理解する」と言うとき、その「正しさ」は、理解する側にとっての「正しさ」でしかないんじゃないか。

知識には正確性という尺度があるけど、現実の世界を生きている人間は、知識や論理だけの存在じゃない。文脈にもよるだろうけど、「人を正しく理解する」という言葉は使うべきでないと思うし、使うなら慎重に使ってほしい。

私は分かっていますよ、と違いを尊重している風に見えて、当事者がすぐ目の前に居る可能性に全く気付いていないようにしか聞こえなかった。

多様性が重要だというのなら、「正しく」ではなくて、目の前に居るその人自身をありのまま理解しようとする試みが大切なはずなのに。僕は「正しく」理解なんかされたくない。分からないことがあっても、不十分でもいいから、ありのままの僕に向き合ってくれる人と一緒に居たい。

僕の周りに何が起こって、何を辛いと感じたのか、僕の話を聞いてくれる人が今、隣に居てくれたら良いのにと切実に思ってしまう。でも、そういう人が居たら、すぐに泣いて、情けない姿を見せてしまうのかな。

ものすごく感傷的な文章になってしまった。でも、これを吐き出さないと本当に一人で泣いてしまいそうだ。