fuchi's diary

都内在住のゲイの感じたこと、考えたこと

人間関係を育むということ

最近、人間関係、特に友情や愛情といった個人的な関係について、どうしたら築いていけるのかを考えることが多い。思考の出発点は、人間関係は必ず相手がいて、相手とともに育んでいくものだということ。改めて書いてみるとなんて当たり前のことだろうと思うけど、ここをスタート地点として考えたことを書いてみます。

 

これも改めて言うようなことでもないけれど、人間関係は、会話や文章で言葉を交わすことや、何かの行動を共にすることで深まっていくものだろう。そして、言葉や行動を共有するということは、それらの中に含まれる繊細な感情を共有したり、そもそも、誰の人生にとっても有限で貴重な時間を分かち合うということも含まれている。

 

人間関係を、自分と相手が一緒に育てる一本の樹木に例えて考えを進めてみる。

年月を重ねて、人間関係がしっかり根を張った大きな木に育っていれば、1リットルの水を注いでもなんてことないだろうけど、まだ種から芽吹いたばかりの状態で1リットルの水を注いだら、育てようとしたものが丸ごと流されてしまうかもしれない。最初の頃は、コップ一杯の水がちょうど良いという時期もあるだろう。

逆に、水を与えすぎることを心配してまったく水を与えないというのも、芽が成長する機会を遅らせて、場合によっては枯らせてしまうかもしれない。

でも、根っこから引き抜いてしまうようなことをしなければ、植物はたくましい生きものだから、ちょっとくらい失敗したと思っても、成長していくんじゃないかとも思う。

 

自分が注ぐ水と相手が注ぐ水を確認しながら、少しずつ成長を見守っていく。相手が注いだ水の量やそもそも水を注いでいるのかどうか分からないこともあるかもしれないけど、相手のことを想像して、自分の行動を決めていく。相手と時間を共有している間だけじゃなくて、共有する前や共有した後に相手のことを考える時間も、人間関係を育むために必要で大切なことだと思う。

 

人間関係は1つだけではなくて、家族、友人、職場と、僕の周りにこれまで培った人間関係がいくつもあるように、相手にも僕以外の人間関係がある。だから、僕も相手も、新たに育てようとしている一本の若木だけに時間を割くことはできない。

これまでの人間関係があって、生計を立てるために仕事をする必要があるし、ライフワークにも取り組みたい。色々とやるべきことはあって、それでも時間を作って一緒に育てたいという思いが合致したときに、育てることができるもの。

友情とか愛情はそういう風にして育んでいくものなのかなと、今の僕は考えている。