fuchi's diary

都内在住のゲイの感じたこと、考えたこと

平成最後の夏に出会った言葉

梅雨が明けて、夏の暑さが連日続いている。
僕には去年の夏の記憶がほとんどない。前半は仕事に忙殺されていて、後半は働きすぎでダウンしていたので体調を回復させることに精一杯だった。
ただ、そんな中でも記憶に残っていることがある。日付は覚えていないけれど炎天下のとある日に、僕は冷房の効いた図書館でエーリッヒ・フロムの『愛するということ』という本を手にとっていた。
この本は、ベストセラーになった『嫌われる勇気』で度々参照されている。その頃の僕は、自分がゲイであることを受け入れる決断をした直後で、自己肯定感に関する本をいくつか読む中でたどり着いた一冊だった。
 
『愛するということ』は1956年に書かれた本だから、今から60年前の当時の常識によって書かれている部分もある。同性愛については少ししか触れられていないけど、病気扱いされている。ただ、これは当時の医学的常識に乗っかっただけで、古い本を読むとよくあることだから気にならなかった。
 
2日間同じ図書館に通って『愛するということ』を読み終えたとき、とある箇所がなんとなく気になって、次のフレーズがあるページをコピーして取っておいた。
 
愛の習練にあたって欠かすことのできない姿勢が一つある。・・・何かというと、それは能動性である。
 
能動性。この単語がどうして気になるのか。その理由は当時の僕には分からなかったのだけど、つい数日前に部屋の掃除をしていたらコピーした文章が出てきて、あらためて読んでみると、「能動性」という言葉が身体に染み込んでくる感覚があった。
 
この本を読んだ当時の僕は、他人に頼まれたことばかりを一生懸命に頑張っていて、自分を見失っていた。世間が想定するこうすればうまくいくというレールに流されるように生きるんじゃなくて、能動的に、自分がどうしたいかを見定めて、自分の意思を持って生きていこうと思い始めた時期だった。だから、この言葉が心に刻みつけられたのだと思う。
 
この言葉に出会って一年近くが経って、去年いた場所からは随分と遠くに来たように感じている。身体も回復したし、新しいことにもだいぶ積極的になったと思う。だけれど、ついつい消極的になってしまう自分に気づくこともある。消極的なのは慎重とも言いかえられる訳で、それがダメなわけじゃないけれど、消極が過ぎればまた流されるだけになってしまう。
 
一年ぶりに再会した本の一節を読み返しながら、そんなことを考えていた。