fuchi's diary

都内在住のゲイの感じたこと、考えたこと

希望を語ること

人生の転機は突然訪れる。昨日とかわらない毎日が、ずっとではなくても一年、二年と続いて行くだろう。そんな風に思っていた日常が偶然の出会いで一変する。そんな出来事が今月の初めにあった。

自分の人生をどうしたいのか。自分の人生でやりたいことは何なのか。正面から考えるには大きすぎるこの問いに、この数週間、急きょ向き合うことになった。といっても、簡単に答えが見つかるようなものではなくて、どう取り組んだらいいか正直困っていたのだけど、宛もなく書店で本を物色していたら、加持伸行さんの『論語』(角川ソフィア文庫)にこんな一節があった。

孔子は、そうした<個人としての幸福>とはなにかと語り続けました。いわば、幸福という<希望>を語り続けたわけです。希望を学生に語ること―それは教師のつとめなのです。

希望を語るという箇所を読んだとき、これは僕が探していた言葉だという直感が湧いた。そして、この一節を何度も眺めているうちに、僕はブログを開始したばかりの頃を振り返り始めていた。

 

ゲイとして生きていこうと僕が一歩を踏み出したとき、それは2年前にブログを始めた時期とほぼイコールなのだけど、最初の一歩を踏み出したときから、おぼろげだけど意識し続けていたことがあった。

一つは、ブログには後ろ向きなことは書きたくないなということ。ブログに何を書くかは人それぞれの自由だけど、僕は、読む人が前向きな気持ちになれる文章を書きたいと思っていた。

ただ、前向きな気持ちになれる文章は書きたいのだけど、文章の内容として前向きなことだけを書くのかというと、「前向きな文章」だと僕のイメージすることをうまく捉えきれていない感覚があった。でも、他にどう言い換えることができるのかわからなくて、違和感を感じたままにしていたのだけど、「希望を感じられる文章を書きたかった」と言い換えるとぴたりと当てはまった。

このブログには僕にとって重い過去を思い出させる文章を書いたこともあったけど、ただ重苦しいだけで終わる文章にしたくなくて、僕自身にも、読んでくれた人にも何らかの救いを感じることができる文章を書きたかったし、できる範囲でそうしてきたつもりだ。文章にこめたものはあくまで僕なりの「希望」だけど、これからもこの視点を大事にして文章を書いていきたいと思う。


もう一つ、2年前から折りに触れて気になっていたことは、ゲイであること、その中でも特に女性と結婚せず、子どもをもたないことに対する後ろめたさだ。

ゲイの友人と、子どもをもちたいという気持ちはどこからでてくるのだろう、という話をしたことがある。その気持ちの源にあるのは、父親・母親との関係なのか。兄弟がいるかいないかなのか。あるいはリベラルな環境の中で育ったのか、血縁関係を重視する風土の中で育ったのかも関係しているかもしれない…。お互いに思いついたことをぽつりぽつりと語りあうことが精一杯で、難しい問題だということをあらためて実感した。

僕自身は子どもを欲しいという積極的な気持ちを持ってはいないのだけど、子どもをもたなくてもそれで良い、と胸を張って言い切ることはできなくて、この話をしたとき、消化不良な感覚を感じていた。
ゲイとして生きると決めたといっても、ゲイであることから目を背けたくなる時期は周期的に訪れてくる。なぜ僕はゲイとして生まれたのか。異性愛者のように、結婚して子どもを育てる人生ではなくゲイとして生きることで、何をしようとしているのか。ゲイとして生きる意味は何なのか。そんな問いが、ゲイである自分から逃げたいときほど頭から離れなくなる。

 

「希望を語る」という言葉に出会った今、ゲイとして生きる意味は何かという問いに向き合ってみると、そもそも問いの立て方として、ゲイとして、という限定にこだわらなくて良いんじゃないかと思えてきた。

僕は、ゲイとして子どもをもてない自分のことを考えて、自分の生きる意味は何なのかと悩むことがあるけれど、異性愛者の男性であっても女性であっても、子どもをもちたくてももてない人もいる。子どもをもたない選択をする人もいる。

これらの人たちの中に、子どもをもてない・もたないことに悩みを抱えている人がいることは容易に想像できるけど、その人たちに生きる意味がないのかとあえて問うてみるとそうとは思えない。生きる意味を、子どもをもつという軸だけに限定せずにもっと広く考えることができるんじゃないかと思う。

こんなことを考えているうちに、僕自身の悩みについても「ゲイとして」という限定をとってみた方が、僕の探している道に近づけるんじゃないかという思いが強くなってきた。

「希望」という側面から考えてみると、次の世代に繋がっていく「子ども」にかかわることは(未経験者には想像できない育児の大変さはあるにしても)希望を実感しやすいだろう。だけど、子どもに関わること以外の領域でだって、希望を語ることはできる。

これまでの僕の人生を振り返ってみても、「希望」をこれから先の世界に多少なりとも残せた、と感じられる出来事を思い出すと、嬉しくなるし、ゲイであること、子どもをもたないことに対する後ろめたさを払拭してくれた。

自分なりの「希望」を見つけて、育てて、その希望を周囲に語ることで、生きる意味を見出すことができるんじゃないか。今のところそんな風に考えている。