心の消化過程
引っ越しに備えて、再読したい本ともう読まないだろうから処分する本の整理を始めた。僕は同じ本を繰り返し読むのが好きで、もう一度読む価値があると思えばずっとその本を手元に残しているのだけど、ジェームズ・W・ヤングの『アイデアのつくり方』もそういう本の一つだ。
- 作者: ジェームス W.ヤング,竹内均,今井茂雄
- 出版社/メーカー: CCCメディアハウス
- 発売日: 1988/04/08
- メディア: 単行本
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今はアイデアの発想方法に関する本は色々と出版されているけれど、この本の日本語訳が出版されたのは1988年と30年近く前で、このジャンルの中では古典的地位を占めているように思う。本文は60ページとかなり短いのだけど、アメリカの広告マンがシカゴ大学の学生向けに講義した内容等をまとめたもので、文章はすごく読みやすい。
タイトルに書いた「心の消化過程」は、アイデアを作る方法論の第2段階として出てくる。アイデアのつくり方の第1段階は必要な資料を収集することであるとした上で、必要な資料集めを終えたらすぐにアイデアが生まれるわけでなく、必要な資料を自分の中で消化吸収する期間を経て、その後に初めてアイデアが生まれるということを説いている。
パッとアイデアが思いつくこともあるけれど、資料を読み込むうちに、心の中がごちゃごちゃになって、はっきりとした答えが見えず途方に暮れる時が来るという。そして、そういう状態に至ったら、いったん問題を完全に放棄して、なんでも良いから自分の想像力や感情を刺激するものに心を移すことが解決のきっかけになるという。
これは、色々な分野に応用が可能な考え方だなと思う。人が新しいもの(それは未知の分野を学ぶことだったり、新しい人間関係を築くことだったり色々あるだろう)に取り組むとき、最初は何もかもが新しく感じられて、前に進んでいる感覚が得られやすい。ところが、その感覚は長続きしない。最初の新鮮な段階を通り過ぎてみると、その分野で自分がすべきことの多さや難しさに目が眩むような思いがして、停滞期に入ったと感じるときがくる。
そういうとき、停滞期に入ったことを苦しく感じることもあるけれど、それが自分なりに行動した結果たどり着いた停滞期だったら、「心の消化過程」というブレークスルーの直前にたどり着いたと見る事もできる。
これは僕にも経験のあることで、とある学問を短期間で習得することを目指していたとき、最初は新しい知識を知ることが面白くて仕方がなかったのだけど、ある程度勉強が進むと上達が感じられず、停滞期に入ったなと思うようになった。だけどそれは必要な期間と割り切って、あえて数ヶ月の間、全く別のことに意識を集中させてから戻ってきてみると、(数ヶ月の間まったくその分野に触れていなかったのに)その学問で使われる専門用語や思考方法が自分の身体に染み込んだような感覚が得られて、停滞期を脱していたという経験がある。 僕の経験則としては、資格の勉強とかだと、停滞期も含めて半年くらい経つと、自分の身体にしっくりくることが多い。
ただ、家族関係の問題のように根が深いものは消化するのに数年単位の時間がかかると思う。僕が抱えていた家族関係の悩みだと、10年以上かかって、やっと折り合いをつけることができるようになったものもある。「心の消化過程」にどれくらいの期間が必要かは問題の大きさに比例するだろうから、自分にとって重要な問題であればあるほど、あまり焦らない方が良いのだろう。
最近、何事も急かされることが多いというか、「心の消化過程」をもつ余裕がないと感じることが多いのだけれど、意識的に「心の消化過程」を持った方が、消化不良を起こさず、自分が納得できる解決に至るのも早いのかなと思う。
引っ越しが決まる前のそわそわ
ここ数週間、引っ越しをしようと賃貸物件のサイトを見たり、不動産屋に行ったり、内見に行ったりしてる。1つ気に入った物件があったので申込みをしたのだけど、僕の他にも何人か同時審査を行っているようで、非常にそわそわした気持ちでいる。
ゲイと自認してから初の引っ越しになるのだけど、物件選びの基準が変わったように感じている。これまでは、自分が住むだけだしワンルームとか1Kでいいやと思っていたのが、僕以外の誰かが一緒にいても窮屈に感じないだけの広さがほしいと思うようになった。
こういう風に考えるようになったのは、数ヶ月前に彼氏ができて、恋人が泊まりに来てくれる時にはある程度広い方がゆったり過ごせていいなと思うようになったからだ。ただ、その方とは別れてしまったので、今は引っ越したとしても呼べる恋人はいないのだけど…。
このブログに、恋人が出来たことを書くのはこれが初めてですね。ゲイとして初めての恋人ができてから別れるまでに考えたこと、感じたことは多々あるけれど、相手のこともあるのでブログには詳しくは書きたくないし書けないなと感じている。どこかで振り返るタイミングがあれば良いなと思います。
それで、引っ越しの話に戻すと、そういう理由でこれまでより広い物件に住んでみたいと探し始めたものの、通勤時間を増やすのも嫌、払える家賃も青天井とはいかないとなると、コレだという物件は数える程度しか見つかりませんでした。今回申し込んだ物件は、その数少ない一つで僕の経済状況と物件のスペックがちょうど良い感じに折り合ったので、ぜひとも入居したい。
ただ、あまり期待しすぎるとダメだったときの反動が怖いので、期待しすぎないようにしようと頭では考えているけれど、やっぱり期待してしまう。そんな気持ちの波に揺られてます。
平成最後の夏に出会った言葉
愛の習練にあたって欠かすことのできない姿勢が一つある。・・・何かというと、それは能動性である。
敬語の崩し方
ゲイの友達について
このブログを通じてゲイの方と個別にやり取りをするようになってから、ほぼ半年が経った。僕は自分がゲイだと自認するまで、相手がゲイと分かって誰かと話したことはなかったから、この半年は、何度も新しい経験をさせてもらった。今も1〜2ヶ月前を振り返ると遠い昔のことのように感じられる位に、新鮮な日々を過ごしている。
僕の近況をまた伝えたいと思っている方もいるし、継続的にやり取りする中で、ブログには書きにくい悩みを相談したり、共通する趣味を楽しんでいる方もいる。初めて会った時、楽しく感じると同時にまた会えるのかなと少し不安に思ったりしたけれど、今は自信を持って「また会おう」と言える友達もできた。ブログを始めたばかりの頃を思い返すと、なんて恵まれた状況だろうという感慨が湧いてくる。
ゲイの友達には、ゲイではない友達と比べると、「仲間」だと感じる瞬間が多い。そんな瞬間を感じた場面を2つ、書いてみようと思う。
1つ目は、僕の性格は「慎重さ」が結構強いと思うのだけど、慎重が行き過ぎてゲイとしてどうやって行動していけばいいのか足踏み状態になっていた時、あえて僕の「慎重さ」と違う考えをぶつけてくれた方がいた。ブログに書いたことも書いていないことも含めて、お互いのことを知った上での踏み込んだ言葉は、相手がどういう意図でその言葉を言ったのかと考えることができるから、僕も真剣にその言葉を受け止めて、自分の「慎重さ」の先にあった、僕が怯えているものを見つめ直すことができた。
その時のやり取りを通じて、僕は自分の「慎重さ」を大事にしつつも、自分が想像していないことが起きたときにも楽しめる位の余裕を持とうと意識するようになった。それができるようになったとは言わないけど、このことを意識するようになってから、色々と身の回りにも変化が起きるようになって、僕にとって一つの転機になったように思う。
もう1つ、ゲイを自認して行動を始めたばかりの僕は、ゲイの人に会うと悩みを聞いてもらうことが多かったと思うのだけど、この間、何度も会っている方とちょっとした用事があってお会いした時、ゲイとしての側面ではないことについて、その方が抱えていることを聞かせてもらった。そして、一通りの話を聞かせてもらった最後に、「この話はふちさんに初めてしたかも」という言葉を聞いて、とても嬉しかった。
そのときに思ったのは、セクシャリティに関係のない悩みについて相談するにしても、自分がゲイであることを知らない友達より、同じセクシャリティの友達の方が相談しやすいのではないか、ということだ。
自分のことをゲイだと知らない友達には、それがどれだけ付き合いが長い友達だとしても、ゲイであるという秘密を抱えていると(時と場合によって大なり小なり違いはあるにせよ)意識してしまうだろう。そして、相談したい悩み事がセクシャリティと直接は関係がないことだとしても、秘密を抱えていることを意識しながら相談をするのでは、腹を割った話をしにくくなってしまう。
じゃあゲイ同士だと何でもすぐに話せるのかというと、ゲイ特有の悩みは初対面でも話しやすいけど、ゲイ以外の側面で自分を形作ったような過去や悩みをありのまま話すとなると、ある程度の期間やり取りが続いている人でないと難しいのかなと思う。
ゲイの友達は、ゲイ特有の悩みを相談できる意味で大切なのは間違いないけど、ゲイとしての側面が直接関係しない悩みについてもお互いに相談できる友達がいると、人生に大きな安定感をもたらしてくれると感じている。ゲイの人間関係は長続きさせるのが難しいと聞くこともあるけれど、今の僕の周りにあって、広がりつつある繋がりを大事にしていきたい。