fuchi's diary

都内在住のゲイの感じたこと、考えたこと

『僕たちのカラフルな毎日』の感想

『僕たちのカラフルな毎日 ~弁護士夫夫の波瀾万丈奮闘記~』を読みました。

僕たちのカラフルな毎日 ~弁護士夫夫の波瀾万丈奮闘記~

僕たちのカラフルな毎日 ~弁護士夫夫の波瀾万丈奮闘記~

 

この本の存在はブログを始めた頃に知って、いつか読んでみたいなと思う反面、読むのが怖いという思いがあった。

京都大学在学中に出会って交際を始め、その後二人とも弁護士になって、一緒に暮らしているゲイ二人のエッセイ。そんな本の紹介を見ると、ゲイであることを受け入れたばかりの僕が読むには、あまりにも遠い世界の話というか、ゲイである二人が幸せに暮らしている文章を読んでも、自分が一人であることを痛感して辛くなるだけじゃないかという不安があった。

 

それで、しばらく本を買ったまま寝かせていたのだけど、ちょうど読書に充てられる日ができたので、思い切って読むことにした。この本を読むために「思い切る」だなんて、読んだ後の今だと笑えるけど、ドキドキしながら読み進めた。

読み終えた今は、読んで良かったと思っている。「京大」とか「弁護士」という言葉に、先入観を持ちすぎていたのかもしれない。著者二人がそれぞれの苦難を乗り越えて今の場所までたどり着いたということ、二人が一緒に居たからこそ苦しい時を乗り越えることができたということが伝わってきた。

そして、二人が一緒に暮らす何気ない日常も多く描かれていた。そういう箇所を読むと、恐れていたように辛い気持ちになることは全然なくて、むしろ幸せな気持ちになることができた。

 

本の中で、特に印象に残ったのは「検察官が言った「どっちが男役?女役?」」という文章だ。このタイトルを見ただけでも、この言葉を含む噂話を聞いてしまった著者の南さんが傷ついた事が痛いほど伝わってくる。

そして、この言葉を言ったのが女性の検察官であることに関連して、南さんはこういうことを書いている。

同性愛に限らず、女性であること、家族の事情、自分のルーツ、政治的意見、価値観・・・・・・とにかく日本の権力的組織の一員として働くことは、自分の「個性」は「ないこと」にしなければならない。組織人として有能であることの一つの指標が、「いかに無色透明に見えるか」ということ。だから、男性中心型の社会の中で、権力的組織で働く女性は、「女性」であるというだけで、「無色透明ではない」ということになって、しんどい。

結婚して家庭があっても、結婚していなくても、子どもがいてもいなくても、常に「男性ではない」ことと向き合わなければならない。そんな、ある意味自分と同じ感覚を持ち、同じ苦悩を抱えている女性が、僕のことをからかったのだ。それは、自分で自分を差別して、傷つけているのと同じだ。

検察の組織というのはかなり特殊だろうから、特にそういう傾向が強いのだと思うけど、「組織人として無色透明であることを求められる」というのは、何らかの「組織」の一員として働こうとすると、程度の差こそあれ、否が応でも求められるんじゃないかと思った。

 

僕の今の職場は、飲み会とかであまりプライベートのことは聞かれない方だけど、それでも、彼女は居ないのかと聞かれたりして、異性愛者のふりをしなければならない時がたまに出てくる。

去年までの僕は、自分がゲイであることを受け入れてなかったから、異性愛者であるように振る舞うことをある意味当然と思っていて、そのことに負担を感じることはそれ程なかった。(今思うと、「異性愛者のように振る舞うこと」を考えていたこと自体、ゲイだからこその発想だし、中々ややこしい心理状態だったなと思う)

それが、自分がゲイであることを受け入れて、このブログを始めてからは、異性愛者のふりをすることが精神的な負担になりつつあるんだと思う。我慢できなくはないけど、傷が完全に治る前に同じ箇所がまた傷ついて、じわじわと痛みが続いていくような「しんどさ」を感じていた自分に、この本を読んで気付くことができた。 

そして、この「しんどさ」を一人でずっと抱え続けるのは、どうやら僕には難しそうだ。これから先、どう対処していくかを考えると、今の職場でのカミングアウトというのは、正直、かなり厳しいと思っている。色々な条件がうまく揃って言えたとしても、職場だけでなくプライベートでも交友がある人に、個別に言うのが限界だろう。(それもかなりの難易度だけど)

可能性がある道としては、僕がゲイであることをオープンできる場所や、僕がゲイであると知って、ゲイとしての側面を含めて色々なことを話せる友達や恋人が欲しいとあらためて思った。

そのためには、自分から何かの行動を起こすことが必要だと思うんだけど…調べてみたら、この本の著者二人が主演している映画『愛と法』が、東京では上映が終わっているのだけど、川越や横浜では2月に上映が予定されているらしい。

この映画は色んな映画祭で評価されているらしいから、ゲイ以外の男性で見た人もいるだろうし、映画を見に行くことを大げさに言い過ぎかもしれないけど、この映画を見るところからゲイとしての行動を始めようと考えている。今までは、ゲイ関係の本を読むとか、ブログを書くとか、自宅の中から出たことがなかったけど、まずは一度、外に出てみようと思う。

aitohou-movie.com

 

あと、この本を含めてゲイの著者が書いた本は、なんとなく読むのを躊躇していて、だけど読んでみたら心に響いてもっと早く読めば良かったと思うことが多いから、今後はもうちょっと積極的に読んで、感想を書けるものはなるべく書いていこうと思います。

読書の季節

今日、TOEICを受けてきました。

TOEICの試験は、休憩なしで2時間、リスニングとリーディングの試験が続く。2時間も机に座って問題を解き続けるのは久しぶりだったので、集中力が持つか不安だったのだけど、受けてみると意外と保つことができた。分からない問題もあったし、時間内に解ききれなくて最後はひたすらBをマークしたりもしたけど、今回の受験は自分の今の英語力を試すことなので、その目的は果たせそうだ。

ここ1週間は、試験前ということもあって英語の問題集ばかり読んでいたけど、その反動か、今は日本語の文章をものすごく読みたい気分になっている。あと、昨日くらいから喉が乾燥気味で風邪を引きそうな予感もするから、明日は一日家の中にこもって、暖かくして本を読んで過ごすことにした。

 

読書の季節といえば秋だけど、僕は冬こそ読書の季節じゃないかと思ってる。

秋は、暑すぎず寒すぎない季節だから、ちょっと外に出てみようという気分になるけど、雪が降るくらいに寒くなってくると外に出るには防寒対策が欠かせない。僕は暑さより寒さに弱いので、ついつい出不精になってしまう。

色々なアウターやコートを着られるという意味では寒い季節も嫌いではないんだけど、ここまで寒いと家の中でぬくぬくと読書をしたくなる。暖房がない時代だと、冬は手がかじかんで読書に不向きだったかもしれないけど、今は暖房も電気毛布もある時代。僕の家にはないけど、床暖房まであったらパーフェクト。冬はかなり読書がはかどる季節じゃないかと思ってる。

明日は積読になっている本の中から何を読むか選ぶところから始めて、のんびりと過ごそう。

英語に耳が慣れてくる

英語の勉強をしていて思ったことがあったので、この時期にこんな勉強をしていたという記録も兼ねて、書いてみます。

 

今は、TOEICの公式問題集(リスニングパート)をこんな感じで使ってる。

(1)英文は見ないで、音声だけで英語を聞き取れるかを試す。この時点では、難しいものだとほとんど内容を理解できないこともあるけど、気にしないで、すぐ(2)に移る。

(2)問題集の解答に掲載されている英文を読解(黙読)して、構造と意味を把握する。分からない単語があったら、この時に調べておく。

(3)英文を目で追いながら、音声を流して英文を聞き取る。聞き取れない箇所があったら、聞き直したり、単語を調べ直す。大体聞き取れるようになったら、英文を音読する。(ここまでは英文の再生速度は全て1倍速。)

(4)英文の再生速度を1.25倍速にして、英文を目で追いながら聞き取る。聞き取れるようになるまで、音読をはさみながら何度か聞く。

(5)再生速度1.5倍速にして、(4)と同じことを繰り返す。

(6)再生速度を1倍速に戻して、再度、英文を見ないで、耳だけで英語を聞き取れるか試す。1.5倍速を聞いた後なので、だいぶゆっくり喋っているように感じられて、ほぼ内容を理解できるようになっている。

 

ネット上で色々と勉強法を調べてみて、今はこのような形でリスニングの勉強を続けてる。 再生速度の変更はスマホのAudipoというアプリを使ってます。

この方法を取ると、最初に聞いたときはさっぱり聞き取れなかった英文でも、10〜15分後には大体理解できるようになっている。最初に聞いた時にはほとんど聞き取れなかった英語の文章が、一定の手順を踏むと英語として意味が聞き取れるようになるというのは、つくづく不思議だなと思う。

自分の脳みその中の、使われていなかった箇所が繋がっていく感覚は、新しいことを学ぶときには大なり小なり感じることだけど、語学の勉強は特にその感覚が強い気がする。初めて聞く英語を理解できる境地はまだまだ見えないけど、こうやって、少しずつ聞き取れる範囲を増やしながら、地道に問題集を進めてます。

言葉の選び方

1月2日、悠さんに僕のブログに触れてもらったことをきっかけに、自分の書いた文章を読み返したら、こんなことを書いていた。

文章には、書いた人の人柄が現れる。僕の文章にも、僕が意識していることだけじゃなくて、意識できないことまで含めて、僕がどういう人間なのか、その断片がこめられていると思う。文章の内容はもちろんだけど、語彙のバラエティ、文体、てにをはの使い方、文と文との間の呼吸の置き方や、同じ内容の文章でもどういう語順や並べ方で構成するか。文章を読み続けていくと、書いた人の人柄が見えてくる。 

fuchi00.hateblo.jp

 

この文章のうち、「てにをはの使い方」と「同じ内容の文章でもどういう語順や並べ方で構成するか」という箇所を書いた時に思い浮かべたものがある。

それは、TBS(MBS)系列で放送しているテレビ番組「プレバト!!」の俳句コーナーだ。

このコーナーは、2018年の紅白歌合戦の審査員にもなった俳人の夏井いつき先生が、芸能人や有名人の俳句を添削するというもので、僕は数年前から録画して、ずっと見続けている。

夏井先生の俳句コーナーは、最初はそれほど熱心には見ていなかった。たまたまチャンネルを変えていたら、芸能人の俳句をばっさり切り抜くような辛口の添削をやっていたのが面白くて見始めたけど、早く帰宅できた日にチャンネルを合わせて見る位だった。

だけど、俳句コーナーを見続けていると、徐々に、「〜を」とか「〜や」といった日本語の助詞1文字が持つ表現の力や、同じ単語を使っているのに語順が変わるだけで読んだ時の印象がガラッと変わる俳句の面白さに惹きつけられて、録画をして毎週欠かさず見るようになった。

 

これは11月にリンク先の記事を書いた時から思っていたことで、文章にもしていたのだけど、ブログにこの番組のことを載せて良いのか、迷っていた。「プレバト!!」という番組の、ゲイ(を含む性的少数者)に対するスタンスが見えてこなかったからだ。

そのスタンスの、全てとは言えないけれど少なくともその一面が、昨日、見えてきたように思う。

 

2019年1月3日に放送された「プレバト!!」は新春特番で、夏井先生が実力を認めた芸能人たちによる俳句のタイトル戦が放送されていた。

タイトル戦のクライマックス、優勝を飾ったのは、2018年の夏にニュースになった「生産性」という言葉を含む国会議員の発言について、納得できない思いの丈を書いたという東国原英夫さんの一句だった。

そして、夏井先生は、東国原さんの句の解説の中でこんなことを言っていた。

「生産性」という言葉を含むあの発言が人々の記憶からちょっとずつ薄れていくにしたがって、この句の意味と意義がちょっとずつ変質していく。だからこそ2018年に詠まなくてはいけないと思う 。

僕は、東国原さんの句そのものというよりは、夏井先生の解説中の「この句の意味と意義がちょっとずつ変質していく」という箇所に、何かを受け取ったように感じた。

世の中に起こる出来事は、それが起こった当時、どんなに大きな出来事であっても、人々の記憶から薄れていかないものはない。小さな出来事であれば1年もせずあっという間に忘れられていくだろうし、歴史に残るような大きな出来事であっても、20年、30年と時が経てば、その当時に生まれていなかった人達はどんどん増えていく。

大きな災害や事故であれば、歴史の教科書にはのるだろうし、それを語り継ぐ活動をする人々や石碑などによって伝承されていくことはあると思う。また、小さな出来事であっても、今の時代であれば、ネット上に何らかの情報は残り続けるかもしれない。

それはとても大事なことだと思うけど、日々新しい出来事は起こり続けていて、一方で人間の記憶力は有限で、世界は変化を続けていく。

だから、あの発言も人々の記憶から薄れていくだろうし、東国原さんが詠んだ句の意味と意義は変質していく。だけど、そうだとしても、この句が存在することの意味と意義は失われない、そういうメッセージを夏井先生が込めているように思えた。

 

夏井先生は、東国原さんの句に対して、「言葉の選び方にも作者の思いが細やかにのっている」と褒めているのだけど、夏井先生の発言も、まさに細やかな思いがあってこそできる発言のように聞こえた。

LGBTに関する句が1位になったということだけをもって、「プレバト!!」がLGBTフレンドリーな番組だとか、そういう風には思わない。だけど、「細やかな思いを大切にする」ということを新春特番の最高潮の場面に持ってくる番組なら、ゲイとしての僕が触れても大丈夫かな、と思うことができた。

僕も、細やかな思いを持って、それを伝えられるような文章を書いていきたいと思う。

お雑煮に入っている大根

新年最初の記事は新年の抱負を書こうかなと、先月の中旬位にはそう思っていたのだけど、年が明ける前に今年の目標は色々書いてしまったので、新年にふと感じたことを書くことにした。

 

元旦は、実家でお雑煮とおせちを食べた。実家で作るお雑煮は、昆布だしにお餅と大根、それに鶏肉と菜っ葉その他の具が少々といったシンプルなものなのだけど、そのお雑煮の具の中で特に好きなのが、お餅と大根です。お餅はお雑煮のメインディッシュだから好きという人も多いだろうけど、お雑煮のダシが染みこんだ大根を食べだすとこれが中々止まらない。

 

そういえば、僕は大根とお麩のみそ汁も好きだから、大根が入っている汁物が好きなのかもしれない。おでんの具も大根がないと食べた気がしないし、こんなにダイコン愛を持っていたのかと、自分でも少し意外な発見でした。

 

自分が作る料理を思い返してみると、他の人と比べたことがないから正確なところは分からないけど、大根ステーキ(居酒屋で出てきたメニューを見様見真似で作った大根の照り焼き)とか、ポトフに多めに大根を入れたりとか、大根の比率が高いかもしれない。大根以外にも、ジャガイモとかゴボウとかレンコンも結構好きだから、根菜類全般が好きなのかも? 元旦にお雑煮を食べていると、こんなことが思い浮かんできて、頭の片隅であれこれと考えていました。

 

そして、毎年、実家で母親に作ってもらっているお雑煮だけど、この味のレシピを教えてもらっておいた方がいいのかなと思った。

これまではあまり考えて来なかったけど、僕が年を取るということは、母親も年を取るということで、いつ、何が起こるかは分からない。母親のレシピのうちいくつかは、時間のあるうちに、教わっておきたいなと。

 

これが元旦に考えてたことで、今日の朝は早速作り方を教わりながら自分で作ってみた。下準備さえしておけば、当日の朝の調理は最小限の作業でできるレシピだった。お正月だから、できるだけ手間がかからないようにしてるんだな。聞いてみると、このお雑煮は、母方の祖母の家でずっと作っていたものを簡略化して作りやすくしたものらしい。

 

お正月は、どうしても「家族」や「家系」というものを意識して、色々と思うことはあるけれど、このお雑煮のレシピは喜んで受け継ぐことができそうだ。