fuchi's diary

都内在住のゲイの感じたこと、考えたこと

『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』Bonus Trackまでの感想(完)

『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』を読み終えました。

(ぼやかしていますが、ネタバレがあるのでご注意ください。)

彼女が好きなものはホモであって僕ではない

彼女が好きなものはホモであって僕ではない

 

 『カノホモ』は、これまでに感想を書いたtrack3までが起承転結の「起」で、track4から物語が一気に動き出した。track3までは自分の経験と重ね合わせることが多くて、国語の授業の朗読くらいの速さでしか読めなかったけど、track4からは物語に入り込むことができて、一気にアクセルがかかって残りを一日で読み終えた。

 

僕は小説を読んだり映画を見たりすると結構すぐに泣いてしまう性質なのだけど、『カノホモ』も、track5の終盤を読んでいてボロボロと泣いてしまった。物語が動いている所のネタバレは避けたいので抽象的な言い方をすると、現実の世界でも、同性愛者の物語が前に進むためには、比喩的な意味であの出来事(あるいはそれに近い何か)を必要とせざるを得ない人は多いんじゃないかと思った。僕自身は、あの出来事のようなことはしたことがないけれど、今年の夏にそれに近い出来事を経験した。(このこともブログを書き始めたきっかけの一つで、いつか書きたいなと思っている。)

 

『カノホモ』の作者である浅原ナオトさんの言葉が、僕がこのブログを書くきっかけの一つになっていることは、ブログを始めた直後に書いた。この時点で、『カノホモ』は僕に影響を与える1冊になるだろうという予感はしていた。

fuchi00.hateblo.jp

読み終えた今、その予感は的中したと感じている。セクシャルマイノリティ、特にゲイの当事者がこの小説を読んだら、大なり小なり何らかの自分の過去を振り返りながら、今の自分を見つめ、考えることができる、素晴らしい小説だと思う。

 

なのだけど、だけど・・・『カノホモ』のラスト、Bonus Trackを読んで、僕は固まってしまった。土曜日の午後の自宅で、椅子に座りながら読んでいたのだけど、その箇所を読んだ途端に、頭が働かなくなって、Kindle Paperwhiteを持ったまま5分か10分くらい、呆然としてしまった。

そして、しばらく経つと笑いがこみ上げてきた。『カノホモ』を読み始めた直後から、この本は感情を揺さぶってくるから通勤電車では読みたくても読めなくて、ずっと自宅で読んでいたのだけれど、最後が一番危なかった。ラストを電車の中で読んでいたら絶対に挙動不審人物になっていた。

『カノホモ』を読んだ人なら、僕がBonus Trackを読んで固まった理由をお察しいただけるんじゃないかと思う。僕は、読む前からこの小説の影響を受けていた。この本を読み終えてやりたいと思ったことは、もうすでにこのブログに書いていた。

なんだか、浅原ナオトさんの掌の上で転がされ続けてたような気分だ。この2週間の自分が一気に客観化されて、くすぐったくてほほ笑ましいものに見えてきた。本を読み終えた感想が「固まってしまった」だなんて初めてだけど、全然悪い気はしない。むしろすがすがしい。ここまで本を読むタイミングがハマったのは思い出せないくらい久しぶりで、これから先も滅多にないだろう。

 

浅原さんは、『カノホモ』を読んだ当事者が、現実世界でカムアウトをしたくなっても、その前に一歩立ち止まって考えることを呼び掛けている。また、ネット上での匿名でのカムアウトや同性愛者間でのカムアウト以外、つまりは現実世界で、相手のセクシャリティが不明な状況において実名でカムアウトすることについては、逃げ道を残すくらいに慎重になった方がいいのではないかと書いている。(「しない方がいい」ではなく「慎重に」といっているので、慎重に考えた結果、カムアウトする人には応援の言葉を送っている。)

kakuyomu.jp

『カノホモ』の終盤で、「異性愛者が同性愛(全般)に理解を示すこと」と、「異性愛者が目の前にいる同性愛者を個人として理解すること」との違いについて触れている箇所がある。現実の世界では、後者の理解であっても同性愛者が獲得するハードルはものすごく高い。

「目の前にいる人を個人として理解する」なんて、そもそも異性愛者同士でも難しいし、完全に他人を理解することなんて不可能だ。それでも、少しずつでも、自分の近くにいる人を理解しよう・理解されようとするとき、異性愛者にはない困難が同性愛者にはある。今の現実世界で、性的指向は、個人を理解しようとする上で隠しておくにはあまりにも大きすぎるし、かといって性的指向を明かしたとしても、それでうまくいく保証はどこにもない。

そのことは、作中に登場する同性愛者の母親の描写などにも十分描かれているけれど、『カノホモ』は「大衆向けエンタメ青春小説」として書かれていて、ストーリー全体としては主人公の純くんが親しい人たちや母親の理解を得て成長していく物語だから、カムアウトが起こし得る影響の重大性が十分に伝わらない可能性を考えたのかもしれない(経済的に保護者に頼らざるを得ず、自分の判断では居住場所の変更も難しい中学生~高校生がカムアウトをした場合の影響は、計り知れない)。

それで、小説の終わりに、Bonus Trackとして、現に悩み苦しんでいる当事者の読者が、作品に影響を受けて勢いだけでカムアウトしてしまう前のクッションとして、あのような提案を書いたのかなと思った。それを作者あとがきではなくて、あくまで物語の中に込めたところに、小説家としての矜持を感じた。

 

僕は休日の朝、音楽を聴きながら外を走るのをささやかな趣味にしている。早速今日から、QUEENのアルバムを色々と聞いてみようと思う。