fuchi's diary

都内在住のゲイの感じたこと、考えたこと

自分が見ている世界と認知のゆがみ

今読んでいる本に、「ディベート」とは、議論にルールを加えたものであると書いてあった。ルールのない議論は価値観の違いもあって平行線をたどり、結局声が大きい人の意見が通ってしまいがちだけど、「ディベート」はそうならないために、いくつかのルールを議論の前提条件にしているという。

その本では、ディベートのルールがいくつか紹介されていて、「論題(テーマ)を絞る」、「話す順番・時間を制限する」、「(相手を論破するのではなく)第三者を説得する」といったルールがあるらしい。

僕が面白いなと思い、著者もこのルールがディベート思考の一番大切なところだというルールは、ディベートは賛成側・反対側に分かれて行うが、賛成・反対のどちらの立場に立つかは、くじ引きやじゃんけんによってディベートの直前に決まる、というもの。

このルールのポイントは、個人的な意見や好み、価値観を問わず、賛成・反対、両者の立場に立った主張を準備して、たとえ個人的に反対の立場であっても、くじ引きで賛成側になれば肯定的なことを言わなければならない点にある。

そして、このようなディベート思考は、一人で物事を決めていくときに役立ち、自分に都合の悪い意見や、自分の価値観からは出てこない意見も視野に入れて、頭の中で賛否両論をぶつけ合って、その時点での最善の解決策を決めることができるという。

 

なんでこんなことを書いたかというと、ねじまきさんがブログに書かれた記事が、このディベート思考の実践なんじゃないかと思ったから。

www.nejimakiblog.com

 

視力が悪いという、普通はデメリットしか感じないところにメリットを探し出そうとして、5つもメリットを見つけている。しかも読んで面白い。ご本人がネタ記事として書いているものにこんなクソ真面目な反応をするのもどうかと思ったけど、せっかくなので、僕も、他に目が悪いメリットがないかと考えてみた。

 

中々難しかったけど、一つ思いついたのは、視力が悪いことによって「自分の見る世界がゆがんでいると体験できること」はメリットになるんじゃないかということ。

 

視力の悪い人は、裸眼で見る世界と、メガネやコンタクトレンズを通してみる世界では、ぼやけて見えたりクリアに見えたり、見え方が違うということを実体験として知っている。

 

ただ、メガネをかけ続けていると、お風呂に入るときや寝るとき位しか外さないから、結局、ほとんどメガネを通した世界だけを意識することになる。メガネが身体の一部みたいに感じられるようになって、視力が悪いことはそんなに意識しなくなる。

 

僕は、子どもの頃から視力が悪くて、普段はメガネをかけている。そして、休日は気分によって、コンタクトレンズをつけることがある。

たまにコンタクトレンズをつけると、360度視界がクリアになった世界は、裸眼はもちろん、メガネをとおして見る世界とも全然違う。視力の良い人は、いつもこれほどクリアな世界を見ているのかという驚きと羨ましさがある。

こんなことを感じるのは、僕がコンタクトレンズをつけ始めたのが、大人になってからというのも影響していると思う。

 

人の認識や意思決定は、それまでその人が培ってきた価値観とか考え方を拠り所として行うものだけど、自分でも気付いていない価値観・考え方というのは誰にでもあると思う。そして、場合によっては、自分で気付くことができない価値観・考え方が強まりすぎて、「認知のゆがみ」として、自分にとって悪い影響を及ぼすこともある。

(「認知のゆがみ」についてはウィキペディア先生に聞いてください。)  

自分の見ている世界と、視力の良い人の見ている世界が違うのだという実体験があれば、価値観とか考え方みたいに目に見えないものも含めて、自分が認識している世界が全てではない、違った捉え方もあるんだと意識しやすいんじゃないか。

つまり、「認知のゆがみ」にとらわれるのを予防するために、視力が悪いことが役立つこともあるんじゃないかなと思った。

 

自分の認知がゆがんでいる、なんて僕も四六時中考えている訳じゃなくて、ふとした瞬間に、自分の考え方も何かの価値観によって縛られているのかなと思い浮かぶことがある位なのだけど、僕がひねり出せた、目が悪いことのメリットはこれでした。

 

武器としての決断思考 (星海社新書)

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