fuchi's diary

都内在住のゲイの感じたこと、考えたこと

相性の合う・合わないはどうしたら分かる?

最近、ゲイの著者が書いたカミングアウトに関する本を数冊読んでみた。正確には、Kindleで買った本をiPhoneの読み上げ機能を使って聴いてみた。

iPhoneの読み上げ機能は、「異性愛者」を「ことせいあいしゃ」と読みあげたりして、最初は本の内容を理解できるか疑問だったのだけど、慣れると意外としっかり内容が頭に入ってくるのだから、人間の脳ってよくできてるんだなと思いました。他の作業をしながら本を聴けるのはすごく便利で、試してみて良かったです。

 

カミングアウトに関する本を読んで面白いなと思ったことの一つが、「カミングアウト」という行為の持つ元々の意味を説明した箇所だ。

「カミングアウト」と聞くと、異性愛者である誰か(家族とか友人とか)にゲイであることを伝える行為というイメージだったのだけど、「カミングアウト」という言葉が使われだした頃は、同性愛者が、同じく同性愛者である人に自分がゲイやレズビアンであることを伝える意味だったらしい。同じセクシャリティを持つ仲間にも自分のことを話すことができずに、閉じこもっていたクローゼットから外に出ていく、というニュアンスだったとのこと。

そんなことが書いてある文章を読んでいると、僕は、ゲイとして、ゲイの人と会うことについてあれこれと考え始めていた。

最近、パートナーを求めてブログ経由でなくてゲイの人と会うことが増えたけど、ブログ経由で会う時とはかなり違うなと感じてる。ブログ経由でブロガーさんとお会いするときは、お互いが書いたそれなりの量の文章を読んだ上で会うので、直接会うのは初めてでも色々と話をしやすいと感じている。

一方で、ブログとは関係のないところでゲイの人と会うときは、ほとんど相手のことを知らない中で、自分のことをどうやって伝えていくのか、相手のことをどうやって知っていくのかは、かなり手探りだ。最初は、ゲイということ以外の共通点を見つけていって、共通点が多い人が相性のいい人なのかな、なんて考えていたけど、どうも共通点の数の多さで決まるものではなさそうだ。趣味や仕事がそれなりに共通していても、話してみたらどうも合わない、ということもある。

共通点の多さでないとしたら、どうやって相性が合いそうかどうかを判断するんだというと、まだうまく言葉にできないのだけど、その人を前にして感じた「全て」から自分なりの直感で合う・合わないを判断するしかないのかもと思ってる。禅問答みたいな感じの文章になっちゃったけど、その判断はひと目見てすぐにできるかもしれないし、何回か会って、話をして、それでも判断できないこともあるかもしれない。同じ人でも、出会うタイミング次第で、相性が合いそうだと判断することもあれば、合わないと判断することもあるかもしれない。

こう考えると、ものすごく確率の低いことに挑戦している気がして、尻込みしてしまいそうだけど、誰にも会わずに閉じこもったままだと確率がゼロだということだけは確かなので、今はもう少し、色んな人と会ってみようと思ってます。

 

カミングアウト (朝日新書)

カミングアウト (朝日新書)

 
カミングアウト・レターズ : 子どもと親、生徒と教師の往復書簡

カミングアウト・レターズ : 子どもと親、生徒と教師の往復書簡

 

 

 

スマブラで息抜き

最近、肩に力の入った文章が多い気がするので、たまには趣味の話を。

前にも書いたけど、僕はゲームをするのが趣味の一つで、結構好きです。

fuchi00.hateblo.jpペルソナ5とのコラボがあると知って購入したスマブラに、とうとうペルソナ5の主人公「ジョーカー」の追加ダウンロードが始まったので、早速買ってみました。

ジョーカーだけの追加だと650円で購入できて、今後追加される4キャラクターも含めた5体セットだと2500円でお得に買えるのだけど、どんなキャラクターが追加されるかわからないし、2020年2月まで時期不明の追加となると、その頃までスマブラを続けているかもわからないので、今回は650円の一体セットを購入しました。

 

それで、早速使ってみたジョーカーの使用感ですが、予想はしていたものの、ガンアクションとか、軌道が斜めの飛び道具とか、結構トリッキーな動きが多くて、使いこなせば強くなるのかもしれないけど、練習せずに直感だけで操作するには結構難しいキャラクターかなと思いました。が、好きなキャラクターを動かせることで十分楽しめているので、満足してます。ジョーカーで勝利した時の戦闘終了時の演出とか、原作リスペクトもあって、ペルソナ5をプレイした人の心をくすぐる要素は結構入ってました。

ペルソナ5本編だと、キャラクターを動かすのはフィールド上の移動と戦闘中のコマンド入力くらいなので、肉弾戦含めて、キャラクターの一つ一つの攻撃・防御を操作する楽しさというのは、スマブラだからこそ楽しめる、いいコラボだなと思いました。

 

年々、ゲームにまとまった時間を取るのが難しくなってきていて、他にやりたいこと・やらなきゃいけないことも色々あるのですが、たまに童心に帰ってゲームを楽しむ時間を持つのも、気分転換として大事にしたいです。

会話の際に気をつけてること

ゲイの人と直接会って話すようになってから、数ヶ月が経った。この数ヶ月で学んだことは多々あるのだけど、相手がいることもあって、文章にしていいのか、あるいはどういう文章にするべきか悩んで中々書けないでいた。ただ、色々と経験した直後だからこそ書ける文章もあると思うので、今日は、ゲイの人と会話をするときに、僕が気をつけていることを書いてみようと思う。

周囲に他の利用客がいる居酒屋やカフェでゲイの人と会話をすると、「ゲイ」とか「彼氏が欲しい」という、話の脈絡に関係なくすぐにゲイだと分かる言葉をそのまま使う人もいれば、「(ゲイであると)お互い知ってる友達」とか「恋人と付き合いたい」という風に、話の流れの中ではゲイだと分かるけど、その単語を聞いただけの人にはセクシャリティが悟られにくいよう言い換えて話をする人もいる。

ゲイ同士で会って話をするとき、ゲイであることに関する話をしたいというのは、僕も同じ気持ちだ。また、ゲイ同士で話をする時にまで「この単語はゲイだとすぐ気づかれるから言い換えて使う」なんて煩わしいと思う人もいると思う。同性愛者であることをオープンにして会話をすることに誇りを持つ人もいると思う。それに、カフェや飲み屋の隣の客が何を話していたかなんて、覚えてる人の方が少ないかもしれない。

だから、これから書くことは、良い悪いというより、価値観あるいは相性が合う合わないの話なのかなとも思うのだけど、今の僕は、オープンな場所で自分がゲイだと知られる可能性が生じることに怖さを感じてるので、ゲイだと分かる言葉を直接は使わず、言い換えて会話をしてくれる人に安心感を覚える。

これは作り話ですが、例えば、混雑しているカフェですぐ両隣に他のお客がいる中で、僕がゲイの男性と二人で会話をしているとする。「彼氏と喧嘩をした」という言葉を相手が大声で話した瞬間、ちらりと隣のテーブルの客がこっちを見てくる。僕が話している相手は、隣の客の視線に気づかず、「彼氏」とか「ゲイ」という単語を使い続けている。隣の客は一瞬目を見開いて、僕と相手の顔を見比べた後、何事もなかったかのように僕達から視線をそらす。そんな場面を想像すると、嫌な汗が流れ出しそうになる。

そういう場面に遭遇したら、僕の心の中では、自分のコントロールできない所で僕がゲイであることが意図せぬ形で知られてしまう不安が広がり始めるだろう。隣の客がこっちを見向きもしなくなっても、もしその場所に、自分の知り合いがいたらどうなるのだろうと考えて、不安がじんわりと尾を引いていくと思う。東京に無数にある飲食店で、知り合いとたまたま遭遇する確率なんてゼロに限りなく近いかもしれない。それでも、その可能性はゼロではない。そして、一度知り合いに知られてしまったら、もう知られる前の関係性に戻ることはできない。僕がゲイであることを知ってもらう相手は自分で選びたいし、知ってもらうタイミングもやっぱり僕自身で判断したいと思う。

そんなことを考えて、僕は、カフェや居酒屋でゲイの人と会う時は、できるだけ使う言葉に気をつけるようにしています。そして、そういう配慮をしてくれる人と話していると安心して楽しい時間を過ごせます。周囲の人に聞かれにくい状況で適切な声の大きさで話す分には気にならないので、あくまでTPO次第なんでしょうけれどね。

ここまで書いておいてなんですが、そういう僕自身にはゲイ同士のコミュニケーションで失敗がないのかというと、大なり小なり、やらかしていると思う。ゲイの人と会うようになってまだ数ヶ月なので、どこまで自分のことを開示していいのか、どこまで相手のことを聞いて良いのか、距離感の取り方は試行錯誤の連続で、10代、20代の頃からゲイと自認して経験を積んでいる人と話すと、なんてスマートな対応ができるんだろうと思うことばかりだ。ここに書いた、ゲイだと分かる単語の使い方への配慮についても、そういう話し方をしてくれたゲイの人との会話の中で、なるほどと思って真似させてもらったことだ。

自分がしまったと思うことをその場で謝ることができたならともかく、後でしまったと気づいてももう謝るタイミングを逸していることもあるし、僕が気付いていないことを含めて、色々とやらかしているんじゃないかと思う。人間関係で失敗しないことなんてないだろうから、少しずつでも失敗から学んで、謝れるならきちんと謝って、人間関係の築き方・維持の仕方を学んでいくしかない。そういう意味で、自戒の念も込めてこの文章を書いているのだけど、これからも学ぶことは多いんだろうなと思います。

ゲイであると自認すること

 

はるたろーさんが最近書いた記事を読んで、「ゲイであると自認すること」についてあらためて考えてみた。ゲイであることをいつ自認するかは人それぞれだ。僕は、30歳を過ぎてゲイであると自認したけれど、10代で自認する人もいれば20代で自認する人もいる。40代以降で自認する人もいる。「自認」という言葉の使い方も人それぞれだし、色んな自認の仕方があると思う。それを前提とした上で、僕自身の経験を振り返りながら考えてみると、自認に2つの段階があると想定すると、整理されるように思っている。

 

一つ目は、自分がゲイである可能性に気付くこと。
二つ目は、自分がゲイであると受け入れること。

 

僕の場合、一つ目の、自分がゲイである可能性に気付くことについては、10代の頃から、男の人に性的関心を持つことに気付いていた。だから、自分がゲイである可能性に気付いたのは、結構早い方だと思う。

しかも「ゲイである可能性」といっても、女の人には関心がわかなくて、性的な関心が向くのは男の人ばかりだったから、当時の僕は、男の人のことを好きになる性質はほぼ確実なんだろうなと思っていた。女の人も好きになれるバイセクシャルでなかったら、将来結婚することは難しいだろうと考えていて、「僕は一生結婚しないと思う」と親に話して驚かせたこともある。

中学や高校でクラスメートが恋愛話をしている中、お前は誰が好きなんだと聞かれて、思い浮かぶのは同学年の男子や同じ部活の憧れていた先輩だけど、それを言うわけにはいかなくて適当に話を合わせてやり過ごす。そんな経験を通じて、自分がゲイである可能性に気付く人は多いんじゃないかと思う。

 

一方で、自分がゲイである可能性に気付くのが社会人になってから、という人もいる。これは想像でしかないのだけど、社会人になって初めて自分の性的指向異性愛ではなく同性愛だと気付くというのは、かなりの衝撃を受ける出来事で、それまで異性愛者だと思って組み立てていた人生設計を修正しなければならないのは、簡単には言い表せない苦労が生じるだろうと思う。

 

二つ目の、自分がゲイであると受け入れることについては、僕は30歳をすぎるまでできなかった。自分がゲイである可能性に気付いたのは早かったけど、異性愛者ではないにしてもバイセクシャルである可能性が残っていると信じていたし、女の人を愛することができないなら一人で生きていくんだと強がっていた。
その強がりは、結局30歳前後まで続いてしまった。これまでブログに書いてきたけど、やっぱり女の人ではなくて男の人を好きになるんだと実感する出来事があって、それから、一人で生きていくこともまた難しいんだと感じる出来事にも遭遇して、それで初めてゲイとしての自分を受け入れることができた。


たらればの話しだけど、ゲイである可能性に気付いた後、もっと早い段階で、インターネットとか、学生の頃だったらセクシャルマイノリティのサークルとかを通じて、同じ悩みを抱えている人に会って話をしていたら、僕ももっと早くゲイであることを受け入れることができたのかなと思う。SNSが発達した今より難易度は高いと思うけど、僕が学生の頃からインターネットでの交流もそういったサークルも存在していた。

誰か一人とでも、ゲイであることについて話せていたらというのは、今年に入って僕がゲイの人と直接会って話をする中で、とても、とても強く感じていることだ。悩みを自分で抱えているだけだと巨大な迷宮の中に閉じ込められたような心細い気持ちだったのが、ゲイの人と会って話をすることで青空を見渡すような開放的な気持ちになれる。そして、一人に話すことができたら、そこから次のステップに進むハードルはかなり下がっていることに気付けると思う。

ただ、自分がゲイであること(あるいはゲイかもしれないという悩み)を他人に話すのは、自分がゲイである可能性を受け入れて初めてできることのように思えるし、実際には中々難しいと思う。

だけど、もし僕が10代の頃に、今僕が読んでいるようなゲイブログが存在していたら、また違った選択をできたんじゃないかと感じている。ゲイブログなら、自分の情報を明かさずに他のゲイの人が何に悩み、どんなことを考えて日々暮らしているのかを知ることができる。そして、自分に近い価値観や考えを持ったブロガーさんがメールアドレスを公開していたりTwitterをやっていたら、その人に個別に連絡をとることもできる。そこから、開けていく道があるかもしれない。

このブログは、今の僕が書きたいと思ったことを書く場所として使っているけど、過去の僕に、ゲイである可能性に気付いても受け入れることができなかった頃の僕に読んでほしい文章を書きたいとも思っている。

この文章をあの頃の僕が読んだら、何を感じるだろうか。

 

fuchi00.hateblo.jp

fuchi00.hateblo.jp

 

感情と論理

最近、日々の生活の中で感じたちょっとしたことを書いてみたいと思うことが増えてきた。日常の中で「感じたこと」を書くのは、ブログの説明文にも書いているとおり、ブログを始めた当初からやっているつもりなのだけど、はてなブログのフォーマットだと「僕が感じたこと」(感情)よりも「僕が考えたこと」(論理)を残す場としての方が使いやすいと感じていて、感情面をメインに据えるというか、ふとした瞬間に感じたことをそのまま書ける場所があるといいなと思っていた。

感情と論理のバランスは、文章を書くときだけじゃなくて、大げさな言い方になるけど生きていく上でどっちも大事なんだなと考えるようになった。感情と論理のどちらか一方だけで生きている人は滅多にいないだろうから、僕も含めてほとんどの人は、それぞれにフィットする感情と論理のバランスを取りながら生きているのだろう。

僕は何かに直面すると、一旦自分の中で溜め込んで、あれこれと色んな可能性を考えてから行動するタイプで、感情と論理の二択でどちらかと言えば、論理が強い方だと思う。

この記事自体も、僕が「こうしたい」と思った理由を分析するような文章で、「論理」の側面の方が多く出ていると思う。それは僕の個性だろうから、このブログの書き方を無理に変えようとは思わないけど、最近は、五感とか感性で感じたものをなるべくありのまま表現することも面白そうだし、それで得られるものもあるのかなと思うようになった。

 

もうひとつ、ちょっとしたことを書く場が欲しいと思った理由として、これまで5ヶ月弱ブログを書いてきた経験から、文章を書くことは精神的な安定を与えてくれると感じているので、ブログにまとまった文章を書く時間はとれなくても、短い文章をポツポツと残せる場所が欲しかったというのもある。

あと、これは他のゲイブロガーさんのブログを読んで思ったことなのだけど、短い文章でしか表現できないもの、例えば読み手にその先を想像させる余韻を感じさせる文章を読んで、僕も短い文章を書いてみたくなった。 実際にそんな文章をすぐに書けるとは思わないけど、試してみたいと思った。

 

それで、前置きがやたら長くなったけど、3月に入ってからTwitterを使い始めた。Twitterのアカウントはだいぶ前に作っていたのだけど、まだブログの記事も数本しかない頃で、文章を書くならブログを充実させたいなとしばらく放置していた。それを上に書いたような理由で使い始めました。

ただ、今は一日の中での時間の使い方を調整している最中で、SNSはドハマリすると際限がなくなるだろうという危惧もあるので、タイムラインを見るのも、つぶやくのも、たまに使う程度の頻度でやってみようと思ってます。

まだ始めたてですが、気になるぞという方がいたらこちらからどうぞ。

fuchi (@fuchi00_t) | Twitter